大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

大阪家庭裁判所 昭和62年(少)42458号 決定 1988年3月29日

少年 BS(昭45.11.18生)

主文

この事件について少年を保護処分に付さない。

理由

(非行事実)

少年は、昭和62年10月6日午後4時50分ころ、大阪府枚方市○○×丁目××番××号の自宅において、友人Aから原動機付自転車を運転させてほしい旨の申し出を受け、同人が無免許であることを知りながら、即時同所において、自己所有の原動機付自転車を貸与し、自分は同人の後ろに乗車して、そのころ、同市○○×丁目×番先道路において、同人が公安委員会の運転免許を受けないで右原動機付自転車を運転するのを容易にさせ、もつて無免許運転を幇助したものである。

(送致事実中一部を認定しなかつた理由)

認定した非行事実のほかに、「少年は、昭和62年10月6日午後4時52分ころ、大阪府枚方市○○×丁目×番×号枚方市○○下水処理場内において、友人のA(当時17歳)が運転する第一種原動機付自転車の後部座席に乗車中、制服を着用し、単車で警ら中の警察官B(当時29歳)から、山本のヘルメツト着用義務違反と定員外乗車違反で検挙のため、停止を命じられた際、逃走し、停止を命じながら並走しようとした右警察官に数回手を伸ばして突き倒す仕草をし、約278メートル逃走し、さらに、少年らに追いつき、前に出て停止を命じた同警察官に対し、後方から同警察官の左肩付近を突き、安定を失つた同警察官の単車を転倒させ、その際、同警察官に右手打撲、挫創により約1週間の加療を要する傷害を負わせ、もつて、警察官の職務の執行を妨害したものである。」旨の事実が検察官から送致されている(以下この送致事実を本件非行という)。しかし、この事実について、少年は、当審判廷において、B警察官を突いたことはないと主張し、事実を否認しているのでこれについて判断する。

一  当裁判所が取り調べた証拠によれば、次の事実が認められる。

少年は、昭和62年10月6日午後4時50分ころ、大阪府枚方市○○×丁目×番××号の自宅から、友人のA(当時17歳、以下Aという)と少年の第一種原動機付自転車(以下少年車という)に乗つて先輩の家に遊びに行くことにしたが、Aが少年に運転させてくれと頼んだため、Aが無免許であることを知りながら、運転させることとし、Aはヘルメツトをかぶらず、少年はヘルメツトをかぶつてAの後ろに乗車して、Aの運転で少年宅を出発した。少年は、出発する前に、警察官等に発見されてもナンバーが分からないようにするため、少年車の後ろのナンバープレートを折り曲げた。少年らは、出発して間もなく、大阪府枚方市○○町×番○○証券○○寮前路上で、単車盗の捜査応援を解除され、自己の勤務先である○○派出所に帰る途中で、制服を着用し、警ら用単車(排気量90CC)に乗車していた大阪府○○警察署の警察官B(以下、Bという)に発見された。Bは、少年車の運転者がヘルメツトを着用していないことや定員外の乗車をしていることから、少年らを検挙するため、すぐさま同市○○×丁目×番×号枚方市○○部別館東側前路上付近に出て、走行してくる少年車に停止を求めた。Aは警察官に停止を求められたことは分かつてはいたが、自分は無免許で、ヘルメツトもかぶらずに単車を運転していたことから、逃走しようと思い、停止を求めるBの脇を、速度を上げて、走り抜けたが、その道は同市○○×丁目×番×号の枚方市公共下水道○○ポンプ場に至る道であつた。なお、少年も警察官に停止を求められながらAが逃走したことは分かつていた。Bは、逃走する少年車を捕捉するため、自らも単車に乗つて追跡し、少年車の後方から「止まれ、止まれ」と言つて停止を求めたが、少年車は止まらず、かえつて、少年は追跡するBを振り払うかのように右手を数回振つた。それにより、Aは運転のバランスを崩して結果的に蛇行運転をすることになつた。Bは、少年車の後方にいたのでは少年車が止まらないと考え、次に少年車の右横斜め前方に出て並走し、左手を横にしてAの前方に出してさらに停止を求めたが、少年車はそれでも止まらなかつた。

そして、そのような状況が続いていた際に、Bは単車ごと何らかの原因で同市○○×丁目×番×号枚方市○○下水処理場内の門(前記ポンプ場への入口となるもので、引き戸式の大きな門扉と開き戸式の小さな門扉からなる)の小さな門扉(以下単に門扉というときは小さな門扉を指す)の直前で転倒した。また、少年車もその門を越えて同ポンプ場に入つてからすぐに何らかの原因で転倒し、徒歩で追いかけてきたBに、少年はその場で公務執行妨害等の現行犯人として逮捕され、AとともにBやBからの連絡でかけつけた応援の警察官らに○○派出所に連れて行かれた。逮捕時刻は、同日午後4時52分である。Bは、この日のいずれかのときに、加療約1週間を要する右手打撲、挫創の傷害を負つている。なお、少年車がBに発見されてから転倒するまでの走行距離は約304メートルであり、その走行速度は最も速いときで時速30から40キロメートルくらい、Bが転倒するときで時速15から20キロメートルくらいであつた。

二  一の事実については、少年やAの当審判廷での各供述とBの当審判廷及び捜査段階での供述とで大きな食い違いはないが、Bが転倒した状況について、Aは、Bは少年車に気をとられ、前方をよく見ていなかつたことから、門扉を押さえているブロツクに乗り上げ、車体を左側にして倒れた旨供述し(Aの当審判廷における供述、以下A証言ということがある)、少年もBは少年車を抜いて前方を走つていた際、その時はよく見ていなかつたのでなぜか原因はわからないがBが単車ごとに左側に倒れた旨供述しているのに対し(少年の当審判廷における供述、以下少年供述ということがある)、Bは、少年に押されて一旦右側に転倒しそうになつたが、なんとか態勢を立て直した際、少年車が転倒しているのを見て、自己の単車を左側に倒して徒歩で少年らを追いかけた旨供述する(Bの当審判廷における供述、以下B証言ということがある)など両者の供述に食い違いがあり、これが本件非行の存否に大きく影響することから、この点について検討する。

1  まず、Bが転倒した場所にある門扉等の状況であるが、同じく関係各証拠、特に証人Cの当審判廷における供述(以下C証言ということがある)及び当裁判所の検証調書(以下検証調書という)によれば、Cは本件の門扉のすぐ近くに住むもので、門扉の状況はよく知つていること、この門扉は新聞配達等の関係で常時開け放しにしていて、閉まらないようにブロツクで押さえており、本件当日である昭和62年10月6日の午後4時ころにCが見たときはやはり門扉は開いていたこと、ところが、家に帰つてきたその日の午後5時30分ころには門扉が閉まつていて、門扉を押さえるブロツクも位置が変わつていたこと、さらに門扉に付いているかんぬきがそれをささえる止め金の隙間の部分にはまり込んで動かなくなつており、今にも外に飛び出してしまいそうな状態であつたこと、それは手で押しても元に戻らなかつたことから、翌日バツトでたたいて直したが、止め金は広く開いており、かんぬきががたつく状態であつたこと、かんぬきの止め金に当たる部分には帯状の傷がかんぬきと垂直方向に付いており、門柱のかんぬきが当たる部分には塗装が剥げて傷が付いていたこと、これらのかんぬきのがたつきや傷、門柱の傷などは本件当日の午後4時ころまではなく、正常な状態であつたことなどの事実が認められる。

2  次に、Bが転倒した場所に残つていた油痕様のもの(関係各証拠によれば、これは単車が傾くか転倒した際にガソリンタンクのキヤツプ等から流出するガソリンの痕であると認められるので、以下これを油痕という)については、少年供述やA証言とBの供述とで大きく供述が異なるので、以下これを検討していくが、検証調書、司法警察員作成の昭和62年10月19日付け実況見分調書(以下単に実況見分調書という場合はこれを指す)、付添人作成の実況見分調書のいずれの添附写真によつてもBの転倒現場付近には4つの油痕があり、右実況見分調書等によれば、それらは少なくとも本件翌日の10月7日の警察の実況見分終了時には存したものと認められることから、特定のため、門扉のすぐ南の門柱から近い順にイ、ロ、ハ、ニとする。検証調書によれば、右門柱から各油痕までの距離はイが162センチメートル、ロが185センチメートル、ハが230センチメートル、ニが284センチメートルである(実況見分調書添附の見取図第6号の油痕の位置と距離は検証調書に照らして信用できない点がある)。

Cは、当審判廷において、本件当日午後4時ころに門扉を見た際には、門扉付近には油痕らしきものはなく、翌10月7日の朝に門扉を見たとき初めて油痕に気が付いたが、数は1個だけで、それはイであつたこと及びロ、ハ、ニは、警察が10月7日に行つた単車の転倒実験の際に付いたものである旨を供述し、同趣旨の説明を現場において行つており、少年及びAもBが転倒した際についた油痕はイかロかであると説明している(検証調書)。これに対し、Bは、当審判廷において、イは本件翌日の10月7日に警察が単車の転倒実験をした際に付いたものであり、ハ、ニが本件時転倒した際に付いた油痕である旨供述し、同日に警察が行つた実況見分の際に撮影した写真(実況見分調書添附の写真26号、以下単に写真というときはこの実況見分調書添附の写真を指す)の写真説明欄にもハ、ニが転倒の際に付いた油痕である旨の記載がある。

そこで、この点について判断するに、C証言や少年らの説明について、特にその信用性を疑わせるような事情が存しないのに対し、Bの供述にはいくつかの疑問点が見られる。

まず、Bは、少年に肩を突かれて、右側に傾きほとんど転倒するまでになつたが、態勢を立て直しさらに少年らを追跡しようとしたところ、少年車も転倒していたため単車を左に倒して追いかけたのであり、その際に2つの油痕が付いた旨供述するが(B証言、Bの司法警察員に対する昭和62年10月9日付け供述調書)、一旦立て直した単車を使用せずに徒歩で追跡するというのはそれ自体不自然であり、Bも事件直後はそのような供述をしていない(Bの司法警察員に対する昭和62年10月6日付け供述調書)。また、Bは、昭和63年2月29日と同年3月10日に当審判廷で証言しているが(2月29日の証言を1回目、3月10日の証言を2回目という)、1回目には、油痕の写つている写真26号等を示されても4つの油痕の内どれが転倒した際に付いたものか分からないだけでなく、本件翌日の実況見分の際にはどこで倒れたか答えただけで油痕には気付かなかつた等と証言したにもかかわらず、2回目には思い出したと言つてどれが転倒した際に付いたものであるかまで証言している上、写真26号の写真説明によれば、転倒した際に付いた油痕であると説明されているものが、写真30号等からすれば実況見分の際に付いた恐れがあるため、これについて確認した質問に対して、1回目には写真30号等に写つている単車の転倒の仕方では写真26号のような油痕は付かない旨の証言をしながら、2回目には、実況見分のときは転倒時に付いた油痕の上に再び単車を倒して見て、油痕の流出を確認したものであり、写真30号の単車の転倒で写真26号の油痕がつくと証言したり、油痕(イに相当)が写つている写真30、31号を見て、1回目は影のようなものが見えるとだけ言いながら、2回目には実況見分のときに付いた油痕であると供述するなど各所において証言の不自然な変遷が見られる。さらに、Bは、2回目において、写真30、31号に写つている油痕について、これは申告事案について単車を傾かせたりしたときに付いたもので、実況見分で単車を倒したりする前のものであるとも証言し、実況見分時についたという直前の証言と矛盾する供述をしている上、実況見分調書によれば、実況見分を行つたのは昭和62年10月7日午前10時25分から午前11時10分までであり、また司法警察員作成の「枚方市○○下水処理場内ポンプ場鉄扉損傷申告事案取扱いについて」と題する書面によれば、Cから門扉の件について警察に連絡があり(これが申告事案である)、Bらが現場に赴いたのは同日午前11時30分ということであるから、Bの右証言はこの事実にも反するものである。

以上のような点からすれば、Bが本件時転倒して付いた油痕がロ、ハであるというBの供述は信用できず、それはC証言等のように門扉のすぐ南の門柱からわずか162センチメートルしか離れていないイであると認められる。

3  このような門扉やブロツクの本件前後の状態、油痕の位置と数、これについてのCの証言、Bの単車転倒時の説明の不自然さなどからすれば、A証言のように、Bは門扉を押さえるブロツクに乗り上げて左側に転倒し、その衝撃により開いていた門扉が急に閉まり、かんぬきが門柱に当たつて、止め金にくい込み、門柱に傷が付いたものと認められる。

三  二以外のいくつかの点についても、少年供述やA証言とBの当審判廷における供述とが異なつているから、これを検討する。

1  Bは、当審判廷において、自分の単車が転倒した後に少年車も転倒したため、逃げる少年を走つて追いかけ、その際、逃げている少年のかぶつていたヘルメツトを警棒で1回殴り、それで警棒は折れてしまつたこと(その前に1回殴ろうとしたがそれは空振りに終わつた)及び少年らを捕捉した後、座つている少年の頭をヘルメツトの上から軽く4、5回折れた警棒でたたいたことはあるが、それ以外は少年及びAに対して暴行を加えていない旨供述しているが、少年やAは当審判廷において、少年車が転倒したのはBが少年を少年車から引きずり下ろしたためであり、少年はBからもつと多数の暴行を受けたし、Aも腹部を蹴られるなどの暴行を受けた旨供述するので、これについて判断する。関係各証拠、特にD、E、F、G及びH子の司法警察員に対する各供述調書によれば、Bの少年らに対する暴行については50メートルから70メートルくらい離れた場所から目撃していた人が多数いる上、わずか5メートルくらいしか離れていないところから、H子が目撃していたこと、そして、それぞれの供述は断片的ではあるが、いずれもBの供述を上回る暴行を目撃しており、特にBが警棒で少年のヘルメツトを何度もたたいたのは複数の者が目撃していたこと、目撃者のうちだれ一人少年車転倒後少年が逃走したのを見た者はなく、かえつてEやH子はBが少年のヘルメツトをたたいて警棒が折れたときには少年がその場で佇立していたのを見ていること、Bの暴行は、目撃者であるGが、見兼ねて止めに入り、同じく目撃者であるH子が警察に連絡しようと思つたほどのものであること、少年、Aとも終始無抵抗だつたこと、本件非行時に少年は加療約5日間を要する頭部・右肩・腰部打撲の傷害を、Aは加療5日間を要する後頭部・左肩・左上腕挫傷、腹部打撲の傷害を受けたことが認められる。これに対して、Bは、当審判廷において、当初は前記のように供述しながら、Bの司法警察員に対する昭和62年10月9日付け供述調書中に、少年へのヘルメツトによる暴行の記載があることを指摘されるや、これは座らせるということに入つていると思つていたので供述しなかつたと弁解するなど供述自体にも不自然な変遷が見られる。

このような目撃者の供述、少年らの受傷、Bの供述の不自然な変遷に、前記認定のBの転倒状況を併せ考えると、少年供述やA証言のように少年車が転倒したのはBが少年を少年車から引きずり下ろしたからであり、その後Bは少年にB証言以上の暴行を加え、Aにも腹を蹴るなどの暴行を加えたものと認定せざるを得ず、B証言中、これに反する部分は信用することができない。なお、Eの司法警察員に対する供述調書中に、少年車がBとは関係なく転倒したかのような記載があるが、その供述自体非常に簡単なものである上、E自身、興奮していて詳しい状況は覚えていないとも述べていることから、右認定に影響を及ぼすものではないと判断する。

2  さらにBは、当審判廷において、少年を逮捕した後、少年車のナンバープレートが曲がつていたのでそれを2、3回直すように足で押したことはあるが、それでもナンバープレートは折れたり、はずれて下に落ちたりはせずにずつと少年車に付いていた旨供述し、再三の確認でも同様に供述するが、少年及びAはBが蹴つた際にナンバープレートははずれて落ちてしまつたと供述しているところ(少年供述、A証言)、関係各証拠、特に少年の父親であるB・Tの当審判廷における供述及び司法警察員作成の昭和62年10月23日付け「公務執行妨害等事件の証拠品について」と題する書面によれば、少年車はBが少年を逮捕したときに警察に押収され、昭和62年10月9日午後4時30分ころ、仮還付で少年の父親に引き渡されたが、その際にはすでに少年車のナンバープレートは本体後部のステーが折れ曲がつたりしているところからはずれ離脱していた状況であつたことが認められる上、B自身本件当日の少年車について、「ナンバープレートの取付部のステーが曲がつており、はずれかけていたものである」と報告書の中で述べているものである(B作成の「被疑者等の連行状況等について」と題する書面)。したがつて、この点についてもBの当審判廷における供述は信用することができない。

四  少年がBを突いて単車ごと転倒させたということを、Bは捜査段階でも当審判廷においても供述しているわけであるが、以上見てきたように、Bは、客観的な状況や証拠によつて明らかに認定しうる門扉に影響を及ぼす形での単車の転倒、Aらへの暴行やナンバープレートの脱落などについて否定している上、その供述自体、捜査段階と証人尋問の段階で、証人尋問の段階でも1回目と2回目で不自然な変遷をしていることから、少年がBの肩を突いたというBの供述をそのまま信用することはできない。また少年は、捜査段階においてBを突いたことを認めているが、前記認定の事実にそぐわない点があるし、これについては当審判廷において、取調べの警察官から少年の非行であることを断定的に何度も言われた上、認めれば早く帰れると思い認めた旨供述しており、少年のこの弁解も、事件から逮捕、取調べに至る経緯、少年の年齢とこれまでの行状からすれば、あながち不自然なものではないと解されるので、少年の捜査段階での供述もそのまま信用することができない。そして他に少年の非行を証するに足る証拠がないことから、本件非行事実を認めることはできない。

(法令の適用)

刑法62条1項、道路交通法118条1項1号、64条

(処遇の理由)

本件非行の内容、少年の性格と行状及び家庭環境等に鑑みれば、現段階において少年を保護処分に付するまでの必要性は認められない。

よつて、少年法23条2項により少年を保護処分に付さないこととし、主文のとおり決定する。

(裁判官 今井攻)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例